JCO版私の履歴書 #011 ゆうゆう素敵工房 伊藤 寛子 (文字起こし)

『JCO版私の履歴書』。片づけのプロに過去現在未来の3枚の写真をもとにご自身の半生を紐解いていただく企画です。

第11回のゲストは、ゆうゆう素敵工房の伊藤寛子さんです。

思い出の三畳一間の学生生活

すごいモノクロ写真です。

これは何の写真ですか?

大学生の頃にひとり暮らしを始めた時の部屋なんですね。ここ、3畳一間です!
ちょうど「神田川」という曲が流行ってた頃、本当に3畳一間の生活をしていたので、忘れられない歌でもあるんですけど。なぜここに住んだかというところからちょっとお話します。
私は小さな頃から家に関することがすごく好きだったんですね。小学校3年生の頃はよく間取り図を描いていたり、方眼用紙が大好きで、そこに家の設計図を書いていたりしたんですが、実は自分の部屋がなかったんですね。
家も狭かったですし、なんかこう自分の場所がすごく欲しかった。
それで大学に入った時に、最初は2時間かけて通学をしていたんですが、とにかく家から出たい一心で、ここもとは先輩が住んでいたんですが、自分で勝手にそこに住むと契約をしてきてしまったんです。
で、その頃の3畳一間の家賃っていくらだと思います?

何千円とか?

はい、3,000円でございます。で、3,000円だったら私自分で何とかできると思って先輩が卒業すると同時にこの部屋に入ったんですね。
3畳で狭いんですけど角部屋なんです。南と西に窓があって。台所はありません。共同の台どころです。まぁ今でいうシェアハウスのような。

おしゃれな言い方ですね!

そうです(笑)
玄関が1つで、2階に4人、1階に3人住んでいる大きなお家だったんですね。その一部屋が3畳間で、この写真の右側が入り口で、入ると2歩で窓です。すぐ外に出てしまうような。でもそんな小さな部屋だったんですけど、日当たりがすごく良くて。
まず自分の部屋が持てたことがすごくうれしくて、いろいろと自分で工夫して飾り付けたり、いろいろとやっていました。
押し入れもありまして、押し入れはお布団だけではなくて、今はねつっぱり棒などいろんなものがありますけど、その当時は竹竿のようなものでハンガーバーを作ってお洋服をかけたりとそんなことをしていました

元祖つっぱり棒!

で、この写真の1番右に移っているのは冷蔵庫です。この冷蔵庫は頂き物なんですが、この時代は冷蔵庫がある家が少なかったんですね。私は先駆者でした(笑)
それから真ん中にある黒いのは本棚なんです。本棚を90度回転して置いています。
そして左側の方には木の箱に本を入れたり、自分の趣味のモノを入れたりして、そこがちょっとした台でしたね。
テーブルはというと、机は置けないので、55㎝角のコタツ1つでした。もちろんエアコンもありません。それから扇風機も電話もテレビもありません。
電気製品はコタツと冷蔵庫と、それから後ろの方にちょっと見えるスピーカーなんですけど、これでラジオを聴いたりという暮らしをしていました。
そして3畳ですけど、これ以外にタンスと、小さいけれど食器棚があって、今だったらそれではモノを持ちすぎでしょうと言われるぐらい持っていて、その隙間に布団を敷いて寝ていました。
そんな時代に、自分の部屋が持てて嬉しくていろいろやっているのを、『私の部屋』という雑誌があって投稿したんです。そして取材に来られて、その時のカメラマンさんに撮っていただいたのがこの写真なんです。

へ~!!!

その雑誌にはカラーで掲載されている方もいらしたけど、私の部屋はモノクロで(笑)その時の特集は「狭い4畳半をどう暮らすか」という企画だったんです。
でも私はそれより狭い3畳で・・・この頃の友達でも狭い人で4畳半、もしくは6畳でした。なので3畳の人はほとんどいなくて、貸し間としたら1番小さい単位なのではないかと思います。

そうですよね。

なので私はここで暮らせたので、どこでも暮らせるという変な自信がついています(笑)

(笑)ちなみにここはどのあたりですか?東京都内?

千葉です。

交通の便などは?

駅からは徒歩5~6分で、もちろんお風呂はないんですね。でもお風呂屋さんがすぐ近くにあったんです。それに学校まで歩いて15分ぐらいのところでしたので、すごく暮らしやすい所でした。

自炊はされてなかったんですか?

していました。

共同のところで?

はい。扉を開けるとすぐに小さなキッチンがあって、そこで自炊していました

ではその当時から自分のプライベートスペースと、パブリックスペースの区別をして、モノの配置を考える。めっちゃルーツですよね。

そうですね。本当にここは自分のお城。初めて自分の好きにできる場所というので、ここには3年間住んだんですね。すごく懐かしい場所です。

大学時代から社会人になって、ずっとここで暮らしていたわけではないですよね。

4年生までここで暮らして、卒業して地元に戻りました。

学校の先生という印象があるんですが、社会人になって暮らしに関する仕事に就きたいなという興味とかはなく、教員になられたんですか?

そうなんです。この時代はまだなかなかそういう社会で働くのは難しいところもあって、働いて子育てをしながらだったら教員がよかった。というのと、小さい頃から教員になりたいというのもあったんです。
でもデザイン・美術系のところにすごく行きたかったんですね。ただそういう大学に行く力はそこまでなかったということもあって、教員の道に進みました。
でもやっぱりすごく好きだったのが家に関することなんですね。
で、それが次の写真につながります。